『LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』 演出家・清水洋史さん&翻訳家・埜畑みづきさん&堀内賢雄さんインタビュー

LIFE! 新録版

ザ・シネマがまたやってくれました!そう、ベン・スティラー監督&主演作『LIFE!/ライフ』です。『プロメテウス[ザ・シネマ新録版]』に続き、プロデューサー飯森盛良さんの熱い想いから、ベン・スティラー役に、数々のスティラー主演作で吹替えを担当してきた堀内賢雄さんをキャスティング。新たなバージョンを制作してしまったのです。

2月24日(日)夜9時の放送(今後の放送予定はページ最下部にて)に先立ち、今回は『LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』の演出を手掛けた清水洋史(しみずようじ)さんと、翻訳を担当した埜畑(のばた)みづきさん(ともに東北新社在籍)のインタビューをお届けします!

お2人のインタビューの後にも、特別に堀内賢雄さんにお話しをお聞きしました!あわせてお楽しみください!
堀内賢雄さんインタビューはこちら

⇒『LIFE!』について述べた「ふきカエレビュー 飯森盛良のふきカエ考古学」はこちら

LIFE!インタビュー

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──まさにアフレコが終わったばかりですが、手応えはいかがですか?
埜畑さん(以下、埜畑):清水さんとのお仕事は久しぶりなのですが、翻訳時に想定していたキャラクター像を丁寧に掘り下げていらっしゃって、その演出の巧みさを改めて感じました。今日の取材は、それを絶賛しに来たみたいな感じです(笑)。

清水さん(以下:清水):20年くらい前、1998年から NHK教育テレビの「セサミストリート」が二ヵ国語放送になるということで、埜畑さんと一緒にやっていたんです。僕がこの職に就いて数年目の頃。

埜畑:私も(東北新社の翻訳室に)入ってすぐくらいですね。

清水:お互いまだ若手で、レギュラーでやってたんですけど、その後は不思議とあまり仕事する機会がなかったですね。単発の⻑尺もの(劇映画)はありましたが、随分と久々です。

埜畑:私、『LIFE!』は劇場で観ていて、すごく大好きだったので、「あ、これは!」って、お話が来てすぐに、少し無理をしてもやってみたいと思う作品だったんです。通常、シリーズものを手掛けていると、スケジュールが詰め詰めでなかなかできないんですけど。それで清水さんがディレクターと書いてあったので、ぴったりだなと。清水さんが趣味でカメラをやっているのも知っていたので、請けたら苦しくなるんですけれども、すごく悩んだ末に、主人公のウォルターみたいに、“ヘリに飛び乗った”んです(笑)。

清水:ちょっと個人的な話になるんですが、たまたま話題が出たのでいうと、僕は写真をずっとやっていまして、実は今日もカメラを持ってきてます。職業柄、本を読んでいても音楽を聴いても、もちろん舞台を見ても、どこかで仕事と結びついてしまうんですが、写真はそこから切り離して純粋に、自由に楽しめる趣味でもう30年くらいになります。見るのも撮るのも好きで、尊敬する写真家も大勢います。彼らの写真集を集めて眺めては、自分でもその作風を真似て撮ってみたり、そんなことをずっとやってるんです。

この『LIFE!』は、グラフ・ジャーナリズムの黄金期を築いた「ライフ」誌が舞台になる物語だということで、公開時に劇場に観に行きました。その時もいち観客としていい映画だなと思ったんですけれども、今回、吹替版を新録するにあたって改めて観直すと、観客として観たときには感覚的に受け止めていた脚本の構成が実に緻密に練られていることが分かったり、あるいは見過ごしていた描写が深い意味を持つことに気づいたり、発見がいっぱいあったんですね。映画自体が僕の好きな、写真と人間を巡る物語だということも相まって、力を入れて取り組みました。

写真に関する自分の個人的な思い入れを、登場人物それぞれの、それこそタイトルになっている「人生」そのものに重ね合わせて考えていくうちに、どんどんのめり込んだというのが実感です。それに必要な時間も与えていただけたので、まだ収録が終わった直後で、ミックスもこれからですけども、かなりいい仕上がりになったんじゃないかと思います。

LIFE!インタビュー——想いの強い作品なのが伝わってきました。制作する側になると、いち観客では見えなかった部分も見えてくるんですね。

清水:「吹替版の演出」というのはそこが出発点として大事だと思うんです。決してネガティブな意味ではないのですが、作品そのものは、吹替版の演出である自分が作ったものじゃないんですよね。だから演出といっても、必ずしも自分の思想を表現するわけじゃない。映画はすでにそこにあるもので、英語が分かる人にとって日本語吹替版はそもそも必要ないんですよ。じゃあどうして作るのか。それは当たり前ですけど、英語が分からない人のためですよね。だから、アメリカの観客が原語で味わう感情を、日本の観客に日本語で味わってもらうようにするのが吹替え版の目指す最低ラインのはずです。
その上で僕が、例えばこの『LIFE!』という、ベン・スティラー自身が監督をしている映画の日本語版を演出するとなると、彼がこの映画を作ったプロセスを掘り下げて、いかに監督としてのベン・スティラーの視点に近づくことができるかが大切になるわけです。どのように思考して、どこにどんな心情を表現しようとしたのか。あるいは逆に、時間や予算の問題でこうしたかったのにできなかった、尺の問題から泣く泣くこのシーンは切ったというようなことまで含めて。だから監督がこう思っているんじゃないかっていうシーンはそこを狙うし、あっ、ここは惜しいな、本当はこうしたかったんだろうなっていうところは時に膨らませたりしますが、いずれにせよ、そのためにはどこまで謙虚に作品を理解できたかが僕らの仕事の生命線になります。

たとえば「モナ・リザ」の絵があるじゃないですか。一般の美術ファンなら、ルーブル美術館で、一歩引いたところから全体として見ると思うんです。でも、それは一筆一筆手で描きこまれたもので、例えば、目の描写ひとつとって見ても、実は瞳の中にはわずかに緑が入っていて、潤んだ目の立体感や質感を出しているというようなことがあったりする。何気なく見える山の稜線にどんな輪郭をつけているかとか、この筆の運びは左手で書いたとか、それは美術学生が模写をするときみたいに、寄って寄ってじーっと観察してみないと分かりません。

僕らの仕事もそれに近くて、全体を眺めて、あぁ面白かったといういち観客の感想だけで演出してしまったら、ただ表面的に日本語を並べてなぞっただけのものになってしまいます。監督がどう世界を作っていったのかを、同じくらいの熱量で自分も追体験して、その上で、監督だったら今ここで行われた吹替えの演技に対してどんなアプローチをするのか、それと同じレベルでやれないか、というのがいつもテーマとしてありますね。その感覚が一致するところまで準備できれば、現場に入ったときにも何が良くて何がいけないかがすぐに分かります。今回の『LIFE!』 は、自分にとってなんとかそこに近づけた作品だと思います。

実際、あまり深く考えなくても、表面的な部分を追えば、それでストーリーが理解できるだけのものは作れてしまいます。でもそこが吹替の落とし穴だと思うんです。ストーリーの理解を越えて、そこにいる人物の心情だったり存在感だったり、物語が描く世界の奥行きをどこまで把握して組み立てられたかが本当に試されるべきところなんですね。

埜畑:その奥行きを今回の作品ではすごく感じました。相当こだわってますよね。

清水:もちろん100人いたら100人全員に分かってもらえるものではないかもしれませんが、『LIFE!』が好きな方には絶対に伝わるものがあると信じて、かなりがんばったつもりです(笑)。

——埜畑さんにお訊きします、今回の翻訳でこだわった点は?

埜畑:想いは、「これをやったら辞めてもいいかな」くらいの(笑)。でも、今回は本当に、オリジナルを作った方が伝えたい事を、自分が間に入って翻訳して伝えることができる、こういうことができるんだってすごく嬉しかったんですね。それと、劇中で「赤い車と青い車のどっちがいい?」というレンタカーを選ぶシーンがあるじゃないですか。セリフを書いてるときに『マトリックス』の赤と青のカプセルを思い出したんですが、あの作品では青が戻る方で、赤が(戦いに)進む方。私は普段は青(平穏)を選びがちで、もし5年前の『LIFE!』の公開時にお話をいただいていたら、飛び乗ろうと思わなかったでしょうし、もしやっていたとしても、多分今回みたいな翻訳はできなかったと思うんです。奥までちゃんと読み取れたところが、今だからできた、ちょうど良かったなって思います。

——言葉で多くを語らない映画、出てくる俳優陣が非常にいい表情をする映画ですよね。凝ったセリフも多かったんじゃないでしょうか?

埜畑:ベン・スティラーの静かな演技の変化に感動しました。

ウォルター(ベン・スティラー)と部下のヘルナンド(エイドリアン・マルティネス)の感じは、最初は原音を聴いた私の感覚では、距離感が近かったんですね。それでタメ口にしていたんですけど、清水さんが原稿を直してくださったときに、ウォルターの仕事(写真管理部の責任者)のプライドに対して、部下はすごくリスペクトしているという話になったんです。「そこは言葉遣いをちゃんと変えた方がいい」って。

清水:作品の中身に大きく関わるところですね。ここを話すとアツくなっちゃうんですけど、フィルムの写真は「プリント」がすごく重要なんです。同じネガからでも全然違う写真が生まれるんですね。単なる記録媒体もしくは絵画の代替物に思われていた写真が、独自の芸術まで高められていった歴史がありまして、その時に重要な役割を果たしたのがプリントです。増感現像してみたり、焼き込んだりトリミングしたり、粒子感やコントラストを調整したり、色んな作業を加えて、写真家自身が自分の意図した通りに結像させたものが「オリジナルプリント」と呼ばれて、これが絵画でいうところの真作と同様に美術作品として収集や保存の対象になっています。写真自体は、ネガがあればいくらでも焼けるんですが、やっぱり撮影者が意図したものとして仕上げたところに、写真の完成形が認められているわけです。

ウォルターは映画の前半部分では、陽の当たらない隅っこに追いやられた、脚光を浴びない一見地味な社員かのように描かれているんですよね。でも、写真の世界で考えると、そんなことはあり得ないわけです。あの「ライフ」誌のネガを管理して、なおかつショーン・オコンネル(ショーン・ペン)という世界的写真家が、その撮影済みフィルムをウォルター宛にボンボン送りつけてくる。作品としての写真の仕上げをすべてウォルターに任せているというのは、これ、すごい関係なんですよね。
そんなところに、ショーンが感謝のしるしに財布を贈り、それと一緒に自らの最高傑作、「人生の神髄」をとらえた1枚だと新しいネガを送ってきます。これを最終号の表紙にしてくれ、と。「ライフ」誌が最も重視している写真家が、ウォルターだけにそういうアプローチをしてくるというのは、映画冒頭の文脈ではちょっと不思議に感じるかもしれません。でもそれは、ウォルターが実は素晴らしい審美眼を持った最高のプリンターであることをショーンが分かっているということなんです。となると、部下であるヘルナンドからすれば、ウォルターは憧れの存在のはず。おそらく全米の新聞・通信社の写真部の人間が憧れる当代一流のラボ技術者のはずなんですよね。そういう意味でいうなら、ヘルナンドがウォルターにしゃべる時には、「なぁウォルター、ネガ来たぜ」じゃなくて、「ウォルター、ネガ来ました」みたいな。そういう関係があるはずだと思ったんです。地上のオフィスと地下のラボは別の世界、ウォルターが評価されない世界とウォルターの本当の世界がある。

その最たるものが、ショーンからネガが来た時の場面。ヘルナンドはそのネガに一切触れていないんです。ウォルターの机の上に置いて、ずーっと下がっているんですけど、ウォルターに「これ、マウント (ネガをフレームに設置)するか」って訊かれると「Seriously?」って言いながら駆け寄ってきて、嬉々として作業を始める。つまりショーンのネガはヘルナンドにしてみれば、触るのも畏れ多いものなんですね。その関係性はやっぱり出したいなと思いました。

実はそれが映画全体のテーマでもあると思うんです。ウォルター自身は、映画の最後でショーンのある行動によって報われます。それはショーンが彼をそういう存在として見ていたということなんですが、逆に言うと、この映画はウォルターがものすごい冒険を積み重ねて成長していくような内容に見えますけど、ウォルターは実は何も変わっていない。ああいう風に脚光を浴びるウォルターは、すでにもう映画の最初からいたということが重要なんです。ただそれが、観ている人たちにもハッキリと分かる形になっただけです。
断片的に語られる若き日のウォルター像や、父親を亡くして働き始めた17歳のある木曜日の朝のエピソードから、彼は自分の人生で重要な何かを封印したことがわかってきます。たとえば自由とか。でもその封印したはずの何かは、写真の仕事を通して溢れ出ていたはずです。で、冒頭からそれを何かのかたちで表現するためにはどうしたらいいのか。でもウォルターは極めて慎ましい振る舞いをしてる、じゃあヘルナンドを通して照らし出すことができるんじゃないか、と考えたんです。

——それは、写真をやられている実体験があるのが大きいですね。

清水:確実にそうですね。ただ英語には敬語表現があんまりないんですよね。だから言語的にはどう訳しても成立しちゃうんですけど、そこは日本語の翻訳の面白いところで、「です・ます調」にするだけで、関係性がフッと見えてきて、役者も自然にそういう演技になるんです。だから、「マウントしてみるか」 とウォルターに言われたときに、「えっ、マジで?」と言うと、対等な感じ。でも今回は「いいんスか?」にしてるんですよね。で、その後にネガを手に“Here we go”と渡すときも「できた」とあったのを、「どうぞ」にしてるんです。そうすると、 こんな感じでいいですかみたいにちょっと恭しく差し出して、それをウォルターがふーんと見る、みたいな空気が生まれます。この数文字のセリフでも、明らかに関係性を表現できるんですね。日本人の生理に合ったところで自然にすっと入るように伝えられます。これは吹替版の強みじゃないかなって思いますね。

——今回は、堀内賢雄さんがベン・スティラーを演じるファン念願の新録ですが、堀内さんの演技はいかがでしたか?

清水:賢雄さんとはこれまでも多くご一緒してきました。中でも今回は思い入れのある作品でしたから、かなり細かい演技の表現をお願いしたんですけど、本当に見事に務めていただきました。皆さんご存知の通り、賢雄さんは演じる役の幅が広い。もちろん全体を通して、賢雄さんご自身が持っている華(はな)みたいなものは常にあるんですけど。

軽妙なコメディからシリアスな作品まで、声優はそういう振り幅が許される仕事だと思うんですよね。顔出しの俳優さんは自分の存在すべてを晒すので、特に主役を演じる人であれば、役柄の方向性がある程度絞られてくると思うんですけれども、声優はそこを越えて色んな役を演じられるのが面白いところだと思います。賢雄さんご自身もそれを体現するように幅広い役柄を演じて来られていて、今作にはその色んなテイストが入っているんですよね。例えば妄想の世界では、ときにヒーロー、あるいはちょっとおかしなコメディを演じる。シェリル(クリステン・ウィグ)を助けたり口説くシーンでは美男、上司とバトルを繰り広げるアクションスターも演じます。年老いて死ぬシーンでは、荒唐無稽な『ベンジャミン・バトン』のパロディ描写もあって、まさしく、堀内賢雄という役者全部を使い切った感じですね。とにかく、賢雄さんのあらゆる側面を楽しめる映画になっていると思います。

でもそれに加えて、というか、むしろ今回の主眼はそうした振り幅の部分ではなく、繊細な人物造形にあると思っています。ベン・スティラー演じるウォルター・ミティはとても慎ましいキャラクターで、心理的な事柄を言葉で説明するわけではないので、その表情やセリフのニュアンスで、その背景にあるものを伝える部分がすごく多いんです。ウォルターがシェリルに電話をかけて初めて父親の話をするところですとか。

埜畑:私もそこがすごく好きです。

清水:シェリルとはまだそこまで親密じゃないけど、でも何かふたりの間に、これからもっと近づくであろう空気を予感させる、深いレベルのコミュニケーションがないといけなくて。表面的な言葉のやりとりとして決定的なものは無いけれど、ある瞬間、受話器越しに、確実にウォルターはシェリルという人を信頼し、シェリルはウォルターという人を理解する。その空気が流れなきゃいけないんです。言葉として現れている情報のやり取りじゃなくて、その情報の向こう側にある、言葉にならないものをどこまで表現できるかっていうのが、このシーンですごく重要でした。

埜畑:お母さんにも話せなかった部分ですしね。

清水:ウォルターの中にすごく重い枷として残っている父親の話を聞いたシェリルが「素敵なお父さんね」って言う。その言葉にウォルターが「ああ」って応える。その「ああ」で、今ウォルターが救われたのが分かる、みたいな。

埜畑:手放せたんですよね。ギューって握りしめていた手がフッと緩くなって。しかも本人は気づいてないんですよね、握りしめてたって。

清水:この「ああ」、たった母音2文字でウォルターの気持ちが楽になったというのを賢雄さんは自然に理解して表現してくれました。普段賢雄さんとはたいがい馬鹿な話しばっかりして笑い転げてるんですが、でもすごく色んなことを分かってらっしゃるというか、今回賢雄さんの持っている、賢雄さん自身の人生観みたいなものを、演技についてやり取りして一緒に作っていく中で感じさせてくださったんですね。賢雄さんと20年くらい仕事してますけど、中でもこの作品には賢雄さん自身の持っているいろんなものを存分に入れられた、特別なものになった気がします。なんなら新しい代表作にして欲しいくらい。

——楽しみに待たれていらっしゃる皆さんに、一番感じて欲しい部分はそういうところでしょうか?

清水:そうですね。映画ってやっぱり「人生」ですよね、常に。シェイクスピアは「人生は舞台」と言いましたけど、逆に言えば「舞台は人生」。だから映画も常に人生を含むものなんですけど、この映画ほど端的に「人生」というものについて、肩肘張った重たい感じじゃなく、赦しと希望を与えてくれるものってなかなかないですよね。しかも『LIFE!』というタイトル。

埜畑:そうなんです、しかも邦題ですよね。だからこのタイトルすごいなって思いました。

清水:『LIFE!』なんて付けるの、なかなか勇気要りますよね。正直、僕らは人生通して何ができるんだろうって感じます。結局、理想と現実のギャップや自分の能力の限界だったり、もう色んなことに、ちょっとした諦めと挫折を味わいながら生きてくわけじゃないですか。でも、こんなはずじゃなかったと思う人生で、いやそう捨てたもんでもないよって言ってもらえると、ホッとしたり勇気づけられたりする。だから、そういう作品を生涯に1本でも作れたら、その人の人生はそれだけで報われると思うんです。その意味で、この映画を作ったベン・スティラー、あるいはそれに関わったスタッフたちには、嫉妬を覚えますよね。

それに対して僕たちも近づきたいと思うんです。吹替版の制作を通じて、この映画の持ってる本質にとにかく近づきたい。近づけたら、こっちの人生もちょっと報われるみたいな感じで。作品が持ってる本質のような何かを、吹替版によって、海を挟んだ日本人の我々が共有したいというか。吹替え版の存在が、そのためのひとつの助けになれば良いなと、本当に思います。

——その堀内さんの演技に、シェリルを担当される安藤麻吹さん、ショーン役の山路和弘さんといった包容力と存在感のある声優陣が絡んでいかれます。ご自身が翻訳されたセリフを口に出して、作品を形作っていくわけですが、お聴きになっている感覚はどういうものなのでしょうか?

埜畑:楽しいですよねえ。自分の中である程度の想像はあるんですが、最初のテスト段階でも感動するのに、さらにそれを受けての役者さんの表現。その何段階も変わっていく感じが、私が翻訳していたよりもさらに深くいくので、解釈が浅かったなと思うこともしばしばあります。あと役者さんの演技で、「あ、そうだったのか」と思うこともあります。恥ずかしながら。

——埜畑さんは吹替えの翻訳だけではなく、字幕の翻訳も手掛けられているんですよね。

埜畑:はい。本当は私は字幕の方が好きだったんですけど。だって、吹替えは大変じゃないですか(笑)。でも、吹替えをやると、やっぱりさっき清水さんが言っていたような作品の深いところまで観て、感じてやっていかないといけないので、作品理解がすごく深まる気がします。字幕だけやっている人より、吹替えもやって字幕もやった方が、全然違ってくるよという話はよくしていますね。

清水:情報を伝えるのはもちろんだけど、やはり生理的な、人間の情感みたいなものがありますよね。字幕はやっぱり読むという行為があいだに入って、どちらかというと、一歩引いた“客観” ですから。限られた文字数の中に整理されたもの、もちろん心情も伝えるんですが、それすらも整理して簡潔にまとめていく。それはそれで大変だし高度な判断も要る。一方吹替えは、本当に映画の全体を丸ごと引き受ける感じなんですよね。

埜畑:そうですよね、丸ごとですよね。もう隙間なく。

——「なぜこの人が、今、こういうことを言っているのか?」という背景まで理解していないとだめですよね。

埜畑:そうですよね。そこに至る動機までが分かっていないと。

清水:完全にその人物の視点に立って書かないといけないですからね、セリフは。人格や気分の有り様、生理的な部分まで色んなことがありますから。

——そういう心情まで読み取らないといけないわけですけど、最近は、向こうの俳優さんの口の動きや、原語の語順により正確に合わせることが求められていると聞きます。そうしたところでのご苦労もあるんじゃないでしょうか。

埜畑:口はすごく厳しいですね。1文字、2文字レベルまで求められたりする世界。尺を合わせるのがまず大変ですよね。本当はこの分量だけ伝えたいんですけど、用意されている尺だけじゃ足りないから、英語と違う表現で、もしくは前後のセリフまでトータルで変えちゃって、長いフレーズとして伝えるとかしますね。そうなると、一度考え方をガラッと変えないといけないから……大変ですよね(笑)。

吹替えの場合は、背後に流れるテレビで話している言葉もセリフを全部作らないといけないので、字幕に比べると何倍も掛かりますね。想像力が要るというか、スクリプトにない部分もあったりしますから。

清水:吹き替えでは、演技にせよ翻訳にせよ、逆算で考えなければならないときが多々あります。本当だったらシナリオ的には、ここにもう一秒 “間”があってから、セリフを言いたいという想いがあっても、映画がもう完成しているものである以上、その時間の中でやるしかない。演出として間を置きたいなと思っても、画面で俳優の口がもう動き出していれば遅れるわけにはいきませんから、そのタイミングでセリフを言うしかない。そうなってくると重要なのが、そこでしゃべる動機なんですよね。たとえばその早いタイミングで無理なくしゃべり出すには、そこに至るまでに相手から投げかけられている言葉に対して、あまり迷わずに判断して返事をしているとか、あるいは感情が高ぶっているとか、何らかの前提があるはずです。そういうところから逆算で判断をして、間を置かないことにむしろリアリティを持たせる演技のディテールを考えていくというような。埜畑さんの翻訳もそうだと思います。

こうした制約は山のようにありますね。セリフ一行ごとに何かしらあるといっても過言じゃないぐらい、常にあるんですけど、出来上がったものが観られたときにそうとは思われたくないんです。あらかじめ日本語で発想して、必然としてしゃべっているように聴こえるべく、できる限り努力しています。そこが一番気を遣うところなんですが、その苦労やノウハウは知られたくないですよね。最初は吹替版と思って観はじめたとしても、途中から段々気にならなくなって、終わるときには、ただ「映画を観た」と感じてもらうのが理想ですから。色んな障害や制約をどこまで感じないように仕上げるか、こちらの苦労は、観ている人は気にならない、分からないというのがきっと目指すべき正解なんです。

——今回のように、すでに別バージョンの吹替音声が存在する作品の場合、以前のバージョンを意識されたり、参考にされたりするんでしょうか?

清水:今回に関して言うと、あえて意識はしないで臨みました。DVDは手元にあるんですけど、ミックス作業まですべて終わったら観ようかなと思ってます。

先ほどお話した「吹替版」というものの本来の役割でいえば、どの演出家がどの声優をキャスティングして作ろうと、同じ印象や効果を持つものであるべきなんですよね。完成したオリジナルの映画があるんだから、正論だけ言うなら、誰がやっても同じ仕上がりになるべき。でも実際には吹替版がもたらすプラスアルファがあって、今回で言えば、劇場公開時の吹替と新録版でそれぞれ違う価値が生まれるのもまた否めない事実だと思います。ですから、昔のオンエア全盛の時には、例えば日本テレビの「金曜ロードショー」版があると同時に、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」版があったりですとか、局によるバージョン違いがあって、それぞれに魅力がありましたよね。業界全体でもそこをフィールドにディレクターそれぞれの仕事を見て意識する部分があったと思います。今は多チャンネル放送に加えて劇場、DVD、さらには配信まで仕事の幅がありすぎて、お互いの仕事に目を配ることもなくなってきたようで、ちょっと寂しいですね。
地上波の映画枠がほとんど消滅してしまった今、テレビ独自としては作ることがめっきりなくなったんですが、僕はテレビ洋画劇場吹替制作の最後の時代に間に合ったんです。僕が入ったときには、「日曜洋画に起用されるようなディレクターになることが、とりあえずの目標だぞ」って上司に言われました。放送が日曜9時ということもあってか、当時は何だか「日曜洋画」が一番格が高いみたいな空気があったような気がします。最初の十年くらいの間に、日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ東京をやらせてもらって、テレビ朝日はやっぱり一番最後でした。 同世代では鍛治谷 功さんや簑浦良平さんがそうなんですけど、テレビ用のゴールデンタイムの映画枠をやったのは、僕らが最後の世代だと思います。

いまBSやCS放送だと映画をそのまんまやるじゃないですか。僕らより若い世代はテレビの洋画枠をやっていないので、CMをどこで入れるかなんてことを考えて編集した経験もあまりないと思います。でもあれがすごく面白くて。視聴者を引っ張るために他局の編成を分単位で横目にして、すごく考えるわけです。映画館なら一度座ったら、とりあえずは席を立たないと思うんで、冒頭10分間は静かなシーンをじっくり描く場合もありますよね。でもテレビはつまらないとすぐにチャンネルを変えられちゃいますから、そこはバッサリ切って、すぐ後ろの派手なシーンから行こうなんて乱暴なことをするわけですよ。で、つじつまが合わなくなると、もともと言ってないセリフを作って説明したり。見ようによっては映画に対する冒涜なんですけど、でも映画だってテレビという場に来れば、それはテレビ番組なんですよね。だからライバルは他局の裏番組です。バラエティだったり、プロ野球だったり、ドラマだったり。それと戦うためのプログラムになるんです。

映画でもありテレビ番組でもある「テレビ洋画」枠って、コストの高いゴージャスなコンテンツを観るというプレミア感と、日常の生活空間に届く手軽さを共存させた特殊な場だったと思います。そこを考えてみると、吹替のディレクターって、元々はTVディレクターのいちジャンルだったと思うんです。どう編集して面白くするか、お茶の間の視聴者を引きつける演技をどう作り込むか。そもそも長さ自体2時間の枠にぴったり入るわけもありませんから「長けりゃ切れ、足りなきゃ作れ」と言われたものです。テレビマンとしてのノウハウで出発して、段々と映画に寄ってきたっていうのが、吹替ディレクターの歴史だったんじゃないでしょうか。

そういう経験をしていると、同じ作品の吹替えでも、発表するメディアによって違う作り方をするのがすごく面白いんです。普通は、映画やソフトでの吹替版とテレビ版の吹替版では別のディレクターがやるものなんですが、僕は何度か同じ作品を2回やることが多くて(笑)。

例えば『ダ・ヴィンチ・コード』では、ソニー・ピクチャーズの劇場版を作ったのですが、フジテレビで放送されるときにもう一度担当してくれと言われてそちらもやりました。劇場版では、当時ファミリー向けの作品以外に映画館で吹替えの上映がなかった時代でしたから、むしろ劇場で大人の鑑賞に耐える作品づくりを試すチャンスだと思って、重厚で緻密な仕事を目指しました。でもテレビ版はノーカット3時間という⻑尺をテレビで保たせるために、よりドラマティックな見せ所がなくちゃいけない。それにテレビは観た瞬間に、この人はこういうキャラクターだってパッと入ってこないとダメですから、それに向けてキャスティングや演技の方向性も変えました。同じ吹替版でも、メディアによって求められるものが微妙に違うと思うんですよね。

だから別のバージョンを必要以上に意識することはないんですけど、作品に対する自分の思い入れもありましたから、あえて今回は観ないようにして、自分なりに向き合って仕事しようと思いました。埜畑さんは、観た?

埜畑:私も、観てないです。ただ翻訳した原稿はいただいてたんですよ。だからチラッと見たりはしました(笑)。

清水:僕も原稿はちょっとだけ。さっき話したウォルターとヘルナンドのところとか、こっちで大きく変えるときに劇場版ではどういう判断をしていたんだろうと思って。あとはキャスティングだけウィキで調べたり。だから劇場版の吹替えはすごく気になるんですよ。本当は早く観たいんです(笑)。

——こだわりやお好きなシーンなどはかなり話していただいたと思うのですが、最後に記事を読まれる方に対して、アピールをお願いできますでしょうか?

清水:見どころは全部と言ったら全部なんですけれど。

埜畑:そうなんですよね。私さっきのシェリルとのシーンも好きですけど、見どころとして語られることが多いシーンも好きです。やっぱりウォルターがヘリに飛び乗るところ。あの前にパイロットに「お前も行くか?」と訊かれて、「いやぁ……なんか嵐が来てるし、雲行きが怪しい」とか自分で言い訳して、行かないよう行かないようにしていくんですけど、でも最後は想像上のシェリルに後押しされて決断するところが、私自分に重ね合わせてすごい好きでしたね。あの言い訳してるところとか、すごくいいです。

——やっぱり今の自分が嫌なんだけど、こんなんじゃダメだって思ってるんだけど、なかなか踏み出せない人、そういう方に特に観てほしい映画かもしれないですね。

埜畑:そうですね。自分もそういうタイプですから。動きたいけど動けない人みたいな。でも動いたらこんな色んなことが待っている。それもすべてが繋がっていて。映像もそうですし、アイテムが全部繋がっていきますもんね。それがすごく面白いなと思いました。さっき考えていたんですけど、清水さんとは「セサミストリート」を一緒にやって、それから別々に色んなことを経て、20年近く経って『LIFE!』をやるという……そういう経験も全部無駄じゃないというか、映画で描かれることが自分にもすごく重なってるのが面白いなって思ったんですよね。ちょっとアピールになっていないかもしれないですが。

——いえいえ、大丈夫です。ありがとうございます。それでは、清水さんお願いします。

清水:上手くアピールするのは難しいですよねぇ 。文字になるであろう言葉で言うと、どうしても陳腐なものになってしまうんですよね、本当に。

埜畑:そうですよね。

清水:それがあまりにも口惜しいんですけど、陳腐で月並みなことになってしまうことを承知で言えば、ひとつはこの映画が“英雄のお話”ではないということです。だけどすごく突飛な、もうとんでもない映画的ウソと、本当の日常みたいなものが共存している映画だと思うんですね。結局のところ人生そのものが冒険と言いますか。見た目が派手だとか地味だとか、ドラマティックな出来事があるとかないとか、そういうことには関係なく人生っていうもの自体が、その人それぞれにとって大冒険なんだと。そういうことをちゃんと感じられるのが、この映画の希望だと思うんですよね。だから最後にウォルターが自分で自分の姿を発見するっていうシーンが感動的なんです。

埜畑:あ~そう!全然変わらないですよね、彼の根っこは。でもあり方は少しずつ静かに変わっていって、気づいたらものすごくカッコよくなってる!

清水:そうなんです。だから、自分を見直せる映画になると思うんです、多分いろんな人が。ああ自分の中にも、こんなひとコマがあるんじゃないかと感じられる。希望が持てる。誰もそれをドラマティックに眺めてはくれないけれど、膨大な何億コマもある自分の人生の中にも、こんな瞬間があるんじゃないかって、そう思えるような映画…あぁ、なんて月並みな言い方しかできないんだろう(苦笑)。

埜畑:そうなんですよね。ウォルターが出会う人たち、アイテムがその時は気づかなくてもすべて繋がっていくんですが、そういうものは誰にとっても本当は周りにいっぱい転がっていて、それに気づかないだけと言うか。もっと気づいていきたいなと思わせてくれる作品。

清水:自分の人生の答え合わせができるみたいな。色んな形で。

埜畑:ウォルターがお父さんのことを無意識で押し込めてたのを手放せて、それによって段々物事がクリアに見えていく。何かを掴むように握りしめていた手のこわばりがなくなっていくとか、そういうシーンがすごく好きでした。心にあったモヤモヤしてたもの、邪魔になっていたものがクリアになったからこそ、行けなかった先に進める。

清水:クリアになって進んだ先に、新世界が待っているわけじゃなくて、結局そこにあったのは自分だったという結末もいいですよね。安直な自己肯定じゃなく、観ている人たちが素直に受け入れられる形で、自分を評価することを見せてくれます。

埜畑:少しお話ししたときに、清水さんが「まさに自分がやっている仕事も、一見派手に見えるけれど、実際は夜中にひとりで地味に地味にやってるんだ」っておっしゃっていて。翻訳も同じようなものなんですけど。

清水:そう。映画の世界で役者さんとお仕事しているっていうと華やかなイメージを持たれがちですけど、実際は夜中までチマチマ1文字1文字いじりながら原稿を作って、何度も何度も同じシーンをひたすら観て演出プラン考えて、悩んで、また修正して、って本当に地味なんですよ (苦笑)。

埜畑:だからすごいウォルターと重なるんじゃないですか? カッコよかったですよね。

清水:励まされるよね。

埜畑:今回の新録版のプロデューサーであるザ・シネマの飯森さんについてもよろしいでしょうか?
飯森さんは以前、毎月開催している翻訳室の勉強会に来てくださりその吹き替え愛を伝えてくださったことがあったんです。現場ではその情熱を秘めつつ、制作陣に敬意を払い、的確にコメントくださりその姿勢にまた感動してました。
飯森さんの企画あっての今回の作品ですから。そこも勝手ながら繋がったので、しみじみしてました(笑)。他にも愛のあるたくさんの構想をお持ちですのでどんどん世に出していっていただきたいです!

清水 : すごい方でしたねぇ。現場ではまだゆっくりお話しできていないので、ぜひ飲みに行きたいです。埜畑さんの言うとおり、収録中にご指摘いただいた箇所も本当に的を射ていて。今回はまさに飯森さんあっての充実した仕事でした。

——そしてそこに、「ウォルターの声が賢雄さんだから」ということも強調しておきましょう。だからこそ、ぜひご覧くださいということですよね。

清水:そうなんです、そこが今回の大事なポイントです。賢雄さんという役者を、本当に、思う存分堪能できると思います。ぜひご覧になってください。

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作品への真摯で熱い想いを語ってくださった清水さんと埜畑さん。特に清水さんは、趣味である写真の知識から、ショーンのモデルが世界的な報道写真家セバスチャン・サルガド(www.amazonasimages.com/sebastiao-salgado)であるという持論も展開し、私物であるサルガドの写真集まで披露してくださいました! とにかくこだわりまくっているという今回の『LIFE!/ライフ[ザ・シネマ新録版]』。皆さんもどうぞお楽しみに!

続いて、主演のウォルター役を演じた堀内賢雄さんにお話しを伺いました!

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LIFE!インタビュー——今回新録版ということになりまして、ここを観て欲しい、ここを聴いて欲しいという所はありますでしょうか?

堀内賢雄(以下:堀内):ベン・スティラーの吹替えは色々な作品でやらせていただいてるんですが、『LIFE!』という作品はとってもやりたかったというのがありました。なぜやりたかったかと言いますと、役者冥利に尽きるというか、芝居的にも話的にも、演者としてとってもやりがいのある作品だなぁと思っていたからです。そんなところに今回の新録という縁で、まさか僕にお声掛けいただけるなんて、こんなすごい喜びというのはなかなかありませんよね。
一生懸命生きてきて、仕事をして、長く頑張ってきた人に、光が当たるっていう所。そこに行き着く過程に、妄想もあるし、色んなものを膨らますけど、なかなか踏み切れないでいる自分っていうものがある。それが、あることがきっかけになって動き始め、そこで自分の心の閉ざしていた色々なものが開いていく。この辺の、人間の変化みたいな生き様が見えてくると、すごくこの映画の見所として、いいんじゃないかなと思います。

今回の作品の演出である清水さんのことはとっても好きなんです。それは何故かと言うと、清水さんは映画と演技がすごく好きな演出家で、僕の持っている一番良いものを引き出してくれるんです。簡単には終わりませんけど、何回も録って一番良いところを使ってくれるので、ダメ出しを受けてもめげないでやり切れる感がすごくありますね。
自分の中の、何と言葉にすればいいのか…まだまだ未開発の部分っていうのが、この歳になっても出てくるのかな。その部分を引き出してくれるのがとても嬉しいですね。

たとえば息の使い方ひとつをとっても、この仕事に慣れてきたせいで、「あ、息でしょ?」という演技で、その部分を簡単にやってしまうとするじゃないですか。そうすると必ずダメ出しがくる。大事なのはそのキャラクターが持っている、キャラクターとしての生理的な息遣い、そこにもちゃんと思いがあって、そこから発生する息っていう意味をキチンと理解することですよね。この作品はベン・スティラーが主演に加えて監督もしていて、全てにおいて命を懸けてる作品っていうのがとっても伝わってきますよね。そういう部分を理解した演出家さんとのお仕事ということで、僕としても息一つ気が抜けないなという感じでやっておりますので、その部分も観ていただきたいです。

——堀内さんにとっての演出家さんとは?翻訳家さんとは?

堀内:まず翻訳ありきで、翻訳したものをどういう風に日本語版として、分かりやすく伝えるかとか、どのように活きているセリフにするかっていう流れになりますよね。翻訳家、それから演出家ががんばって煮詰めたものがあって、そこに色を付けていくのが役者だと思っていいます。そういった部分でもお二方の葛藤っていうのも感じますし、演者の僕がしゃべる前にも、相当な意気込みでやってらっしゃると思います。役者は与えられたセリフを読みますが、どうやって表現していくのか、どれだけ噛み砕いてしゃべるかっていうことをまず考えた時に、こんな言い方はおこがましいですが、本が良くなければ良いセリフって少ないのかなという印象があります。今回感じたのは映画好きな翻訳家さんだろうなっていう部分ですね。そういった方の本に出会った時は大変喋りやすいですね。

——言葉選びの上手さみたいなものも感じたりされましたか?

堀内:そうですね。それはもう本当にそこがすべてみたいなところがありますから。字幕の場合は文字数に制約があるでしょうし、情報量としては吹替え版の方がやっぱり多いですよね。すごく大変な作業だとは思うんですけど、人間がしゃべるっていう部分で、それをどのくらい直訳じゃなくて上手く作品として訳してもらうかっていう所、その辺のニュアンスや内容っていうのは、翻訳家さんが文字を起こし、さらに演出家の清水さんがそれを料理してくださるからこそ、生きている日本語版が出来上がってくるんじゃないかなっていう気がしますね。

——完成した作品が視聴者に届くのが楽しみですね。

堀内:そうですね、早くご覧いただきたいです。
作品をつくる過程でこれがいつも自分にとってのベストだなって思ってしゃべっているんですけど、やっぱり自分の中で「あ~まだまだだなあ」と思うこともありますね。長くやってても正解なんかない世界ですから。翻訳家さん、演出家さん、プロデューサーさんに、まずは観ていただいて皆さんが納得しない限りは、路線が違うのかなとか、ニュアンスが違うのかなとか、試行錯誤の繰り返しですね。今日もプロデューサーの飯森さんから「僕はもう〇〇回観た」と、この作品に対する想いをうかがったとき、作品を愛する人たちの想いが根底にはあって、それを感じるからこそ皆さんの期待に応えられる演技ができればって思いますよね。それから演出家さんに自分の良さを引き出していただき、視聴者の皆さんが納得してくれるものに近づけたらなといつも思って演じています。そんな想いが視聴者の皆さんに届くと嬉しいです。
オンエアはこれからですので、是非楽しみに待っていてください。

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